「われわれは音に包み込まれる。音はわれわれのまわりに継ぎ目のない網を作る。われわれは “音楽が空間を満たす” というが、“音楽が空間のある特定な部分を満たす” とは決していわないのである」
K氏、そんなにポカンとしないで!上記の文章は「メディア論」で有名なマーシャル・マクルーハンの著書『メディアはマッサージである』中の一文です。
あれっ、前回予告していたラジカセに映えるカセットの話しを今回はするんじゃないの、という顔ですねK氏。急に気が変わったのです。はい、それは次回という事にして、、、
それで、何故この文を引用をしたかというと、まるで前回わたくしが書いた “間違いだらけのアンビエンス考察” が要約されているように思えたからなのです。
“音楽が空間を満たす” → 言葉本来の意味での “アンビエンス”
“音楽が空間のある特定な部分を満たす”→ ラジカセ七夕号の “アンビエンス・モード”
———と、このブログを書いている私には、そう読めてしまったのです。
ちなみに、このマーシャル・マクルーハンというカナダ生まれのメディア学者、1960年代末から70年代にかけて欧米では一世を風靡した大学教授で「知的予言者」「新しいアルキメデス」等と評された人物なのです。その著作物の内容は特異なキテレツ理論のオン・パレードで、かなり不可解。放言というか、投げっぱなしなリズミカル文体もかなり特徴的。「理論的な矛盾をアレするよりも、スピード!スピード!」とでも言っているかのような、スラッシュ・メタルな論法にわたくしヤられました。どこから読んでも新鮮で、いつ読んでも意味がわかりません。多大な影響を受けました!
このマクルーハン教授、かなりゴキゲンな人物で、1967年にLPレコード ↓ まで出しています。上記『メディアはマッサージである』を音盤化したもので、タイトルも全く同じです。内容はサウンド・コラージュに乗せた朗読もので、現在の耳で聴いても非常に面白いのですが、このレコードで聴けるマクルーハンの声!———これが又、素晴らしいのです。どういう声かと言うと “親戚の調子乗りのオッサンの声” なのです!この声を聴いて難解にも読めたその著作物が、少しだけ理解出来た気になりました。
<LP◉とCD◎と100円で買ったサンプル・カセット◾️です。ちなみにジャケ写真は本人ではありません。>
同様な経験がもうひとつあります。1973年位のベストセラーに『ノストラダムスの大予言』という本があります。著者はルポライター “サソリのベン” こと、五島勉氏です。小学生時代の無垢な私は何故だかこの本の内容に怯えまくっていて、終いにはこの本の表紙や裏表紙の五島氏の著者写真にまで恐怖心を抱いていたのでした。「どうせ1999年で終わりやし~」という、ガキ特有の無根拠でスカした投げやりな気持ちが心のどこかに少なからず存在していました、あのビデオを観るまでは。。。
「1999年に向けて五島勉が語る大予言の真実!」的な内容のVHSを1998年頃に入手しました。記憶は曖昧ですが、世界各地の天変地異や自然災害を扱った米国制作ドキュメントTV番組を、五島氏が気の抜けたような適当な解説をするといった、いいかげんなビデオでした。いやむしろ内容なんてどうでもいいのです。とにかく問題はその “声” なのです!
———えっ?と思うような甲高さ!それに致命的に、か細い声。何か目つきも怪しいし、どこ見てるんだか。現代の言葉でいえばキョドってるってやつ? “サソリのベン” というよりむしろ “蚊トンボのベン” というイメージ。とにかく “何を言っても嘘に聞こえる声” としかいい様のない、説得力皆無のそのVOICE!
「こんな嘘つきオッサンの戯れ言に私は25年も精神のある部分を支配されていたのか!」こう思った時はすでに30を越えていましたが、同時にやっと何らかの呪縛から解放されました。おそらく当時TVにも出演していたのでしょうが、五島氏が登場するだけで怖がっていた当時小学生の私はロクに声など聞いてなかったのでしょう。非常に悔やまれます。
この『ノストラダムスの大予言』が話題になった時、やはり同じタイトルで映画化され、サウンド・トラックのLPレコードも東宝レコードから発売されました。その内容はテーマ曲と富田勲による劇中BGMの、いわゆるサントラ盤だったと記憶してます。
しかしそうではなく!この時期にもう1枚レコードを出すべきだったのです。企画モノ、便乗商品、何でも良いですがとにかく出せば売れたはずです、当時ならば。題して『五島勉の大予言~私が本家ノストラダムスだ!!』当然、発売は東宝レコード。おどろおどろしい天変地異や核ミサイル、はたまた奇形化したミュータント等の妙にリアルな絵を背景に、不敵な笑みを浮かべつつ佇む “蚊トンボのベン” のナイス・ジャケ!
内容は、A面では仰々しくも安っぽい、と言っても当時は高価なシンセをバックに、五島氏の蚊トンボVOICEによる自書『ノストラダムスの大予言』からの不安極まりない朗読が。A面ワン・トラック全20分をやっとの思いで聞き終え、レコードをB面に。B面は大きく3部構成で、トラック1はアルバムタイトルでもある「五島勉の大予言」。前衛的サウンド・コラージュに乗せて、今後の世界情勢や日本の将来について語る語る。蚊トンボVOICEさらに甲高く!さらに早口に!和モノDJの隠しネタとして今や定番です。トラック2「五島勉とノストラダムス」では音の趣向が変わり、フォルクローレ風のイントロが。フィールド風な録音で自分の生い立ちから初恋~えろ小説家時代~ルポライターを経て『ノストラダムスの大予言』を記すに至るまでをリラックスムードで。蚊トンボVOICE低めです。問題のトラック3「愛のテーマ」は、映画のテーマ曲(インスト)に無理繰り自作の字足らずやっつけ歌詞を乗せ、自己陶酔的に音程を外しまくりながら説得力足らずの蚊トンボVOICEで五島勉氏本人が熱唱します。そしてレコードは後味悪く幕を閉じます。。。五島先生、恐怖の大王の正体は先生でしたか。。。スタッフに誰か客観性のある方はいなかったのでしょうか?
———と、まるでこんなレコードが実在するかのようなレヴューを書いてしまいましたが、全てわたくしの妄想ですので、ご注意の程。しかし何故こんな事を書いたかと言うと、是非共リリースしてもらいたかったのです。のちのちトラウマを抱えてしまう人達のためにも。
この蚊トンボVOICEレコード(妄想盤)を聴き込み『ノストラダムスの大予言』を読むと、その恐怖感や深刻度が50%、いや80%ぐらいは軽減されたはずだと思います。そうすればへんな教団がへんなものを地下鉄で撒いたりすることもなかったでしょう、20年前に。この『ノストラダムスの大予言』の拡散させた想念、今でも少なからず残留していると思います。現在ではかなり特殊な形に変形している分、目に見え辛くなっていますが。
そこで思ったのですが、著名人、文化人、小説家、等、、、世間一般にインテリ層と呼ばれる方々、こういった先生らは何らかのレコードを、義務として出さねばならないという事にしてはどうかと。
著作が20冊を越えたらとか、累計で○万部に達したらとか、受賞が5個になったらとか、海外でも著作が翻訳出版されたらとか、色々な基準が設定出来ると思います。なおかつ著作が難解であればあるほど、よりイロモノ的なコミック・ソングという法律を。自著の朗読をCDブック形式でというのは、お茶濁しで禁止です。よっぽどヘン声でない限り。とにかく狙いは、ああこの先生はこんな声であんな事を思考してらっしゃるのだなと、聴覚も使って本の内容をより立体的により身近に理解していただこうという事なのでして、まかり間違っても笑い者にしようなどという魂胆ではございませんので。
その点やっぱり昭和を生きた先生方はキモが座っています。三島由紀夫、川端康成、野坂昭如、富岡多恵子、吉増剛造、、、皆さんレコードを出しています。川端センセイは『伊豆の踊り子/雪国』の朗読をノーベル文学賞受賞記念として出しておられるのですが、あまりのヨレっぷりが芸として成立しているので、マルです。吉増センセイも白目を剥き剥き詩を朗読している姿がはっきりと目に浮かぶので、アリです。この他、果敢にも唄モノに挑戦していらっしゃる方々も多数存在しております。
そういった中で今回、写真付きでブログ後半の主役を張れる人といったら、この方 ↓ でしょう。そうです、竹村健一センセイが1981年11月にSMSレコードよりリリースした『「ぼくなんかこれだけですよ。」竹村健一の手帖』です。このレコードは前掲のマーシャル・マクルーハンの『メディアはマッサージである』と、是非共、併せて聴いて頂きたい。なぜならば竹村健一センセイこそが日本で最初にマーシャル・マクルーハンを紹介した人物だからなのです。
<◉左が表ジャケ、ナイスな帯付きです!右は手帖に見えますが、裏ジャケ記載の曲目表のアップです。>
1967年に『マクルーハンの世界 現代文明の本質とその未来像 ↓ をまず出版。続けて『マクルーハン理論の展開と応用』も出しております。こちらは私、所有してませんが。
<左が表紙、これまたナイスでクールなジャケです。右は1967年当時の竹村センセイ!>
この最初の本の1967年の時点で竹村センセイの肩書きというか職歴は、英文新聞記者を経て、製鉄の調査部員、広告代理店のコンサルタント及びプランナー、放送評論家、バレエ観賞評論家、自動車工業評論家、大学及び中学教師、更には英会話本を多数執筆、、、と、パワフルなのか単に飽きっぽいのか、殆ど訳が解りません。著作もこの時点で既に40冊以上。ちなみにこの時はまだ37歳!センセイなら生誕時点で既に45歳ぐらいと思っていたのですが。
「マクルーハンによってはじめて自分の生き方を解説してもらった私」である竹村センセイは “日本のマクルーハニスト第一号” を名乗るほど影響を受けたみたいなのですが。。。
しかし、このレコード『竹村健一の手帖』内容を一体どう説明していいのやら。簡単に言うと大半はラジオドラマ風の寸劇なのです。それもかなりオホホなギャグ物の。「ぼくなんかこれだけですよ」「でぇりぃ~しゃす」等の名フレーズを惜しげも無く連発!竹村センセイ、もう一度原点に帰って師匠の『メディアはマッサージである』を聞いてみては。圧巻は何と言っても『MOU CORI GORI DA(もうこりごりだサラリーマン)』でしょう。クィンシー・ジョーンズの『愛のコリーダ』に乗せてセンセイのラップというかぼやきというか、、、とにかくこの曲は何としてでも聴いて下さい!正しい文化人の姿がここにありますので。
それで、このレコードのリリース時期の前後が気になったので調べてみると、『坂田明/20人格』が1980年12月、『スネークマンショー/急いで口で吸え!』が1981年2月、『タモリ/TAMORI 3』が1981年9月、『Wha-ha-ha/下駄はいてこなくちゃ』が1981年12月、と、この1年の間にやたらこの手のギャグ・語り物レコード ↓ がリリースされているのです。スネークマンショーのヒットに便乗した感もあるのかも解りませんが、とにかくその最中の1981年11月に『竹村健一の手帖』はリリースされたのです。
<左から◉『坂田明/20人格』◉『スネークマンショー/急いで口で吸え!』◉『タモリ/TAMORI 3』◉『Wha-ha-ha/下駄はいてこなくちゃ』>
今回ブログを書くにあたって『メディアはマッサージである』と『竹村健一の手帖』を交互に何度も聴いたのですが、このご両人やっぱり似ているのではと次第に思えて来たのです。放言的で投げっぱなしで調子乗り、アカデミズム学会からは冷遇など、様々な共通点もあって。
それでK氏、たった今気付いたのですが、マクルーハンの著作物の放言的な部分を超訳してさらに超訳してというのを何回か繰り返し、最後に関西弁でマッシュアップしたのが———『まぁ、だいたいやねぇ』という、必殺のキラーチューンなのではないでしょうか?
K氏、わたくしのこの考察、かなり正しいと思うのですが、いかがでしょうか?
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>しかしそうではなく!この時期にもう1枚レコードを出すべきだったのです。
>企画モノ、便乗商品、何でも良いですが、とにかく出せば売れたはずです、当時ならば。
>題して『五島勉の大予言~私が本家ノストラダムスだ!!』当然、発売は東宝レコード。
同感です。1枚とは言わず、『五島勉とノストラジャズ』とか『恋の予言~ノストラボッサ』とか、
シリーズ全てが中古屋で買取不可になるまで大量に出しまくってほしかったです…
>そこで思ったのですが、著名人、文化人、小説家、等、、、世間一般にインテリ層と呼ばれる方々、
>こういった先生らは何らかのレコードを、義務として出さねばならないという事にしてはどうかと。
そういえば、少し前にこんなのが再発されましたが…
http://tower.jp/article/feature_item/2015/06/01/0703
つい最近はこんなのが出ましたが…
http://murmurrec.com/mfu_mmr19.html
>なおかつ著作が難解であればあるほど、よりイロモノ的なコミック・ソングという法律を。
この法律が必要ですね。皆で官邸前でデモしましょう!
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ううむやっぱり、宮台センセイ歌わなきゃでしょう!ブックレットでコラボというのも、ちょいとお茶濁し感が。。。如月センセイも、何だかこの時代の業界感があまりにも。。。先生ら!もっと真剣に音楽に取り組みましょう!やっぱデモするしかないかも!