011.安藤昇と野坂昭如にレコード・マニアの追悼!その2野坂昭如編~レコードプレイボーイ入門

さてK氏、前回の安藤昇さんに引き続いての追悼ブログ、今回は野坂昭如さん ↓ です。

<◉LP『野坂昭如ライブ総集編 Vol.2 1975年〜1976年』>

安藤昇氏がお亡くなりになったのは2015年の12月16日ですが、その僅か一週間前の12月9日に野坂昭如氏が亡くなられました。

私はパソコンで情報を検索するのがかなり苦手です。というよりも検索したくないのです。最低限の事は調べざるを得ない時がありますが、極力他から情報を得るようにしています。今年の夏前に私の大好きな小説家の車谷長吉さんがお亡くなりになられた時も、あえて検索せぬよう家人にも伝えました。何かが固定化されそうな抵抗感があるのです。今回の安藤昇氏と野坂昭如氏の訃報に於いては、その気持ちが更に強化されました。主に記憶をたよりに書いていきますので、間違い等ありましたらご指摘下さい。

 


 

野坂昭如氏を初めて認識したのはかなり記憶が曖昧ですが、1973か74年くらいでした。「たまにテレビに出ている、黒メガネをかけた、早口で喋る得体の知れないオッサン」という風に見ていました、小学3年か4年のわたくしにとっては。

 

1999年に復刻されたCD ↑ ◎『絶唱!野坂昭如 マリリン・モンロー・ノー・リターン』に、高橋修さんという私と同年代の方がライナー・ノートを執筆されているのですが、その文章が大変素晴らしく、これ以上に私世代の野坂昭如論を書いたものは他に見当たりません。機会があれば是非読んで頂きたいのですが、この高橋氏も同じような事を書かれていまして、1976年の「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか~」のサントリーのCMによって野坂氏は「小学校高学年男子にとってのアイドルの変なオッサン」という妙な立ち位置に踊り出たのです。この年代の一部の小学生男子は変なモノ、変な人が大好きです。しかし、しょせんは小学生のガキ、まだまだ野坂氏の小説を読むまでには至りません。

わたくしは1984年に大学入学で上京し、学校のある八王子市に下宿していました。この八王子という所は古本屋の多い街で、現在でもそれは変わっていないように見えます。その各店では100円均一のワゴンコーナーが大変充実していまして、大学に入学したての私はそれら100円本を夢中で買い漁ったものでした。

そこで初めて野坂氏のデビュー小説『エロ事師たち』を見つけ、迷わず購入しました。19歳のわたくしはその奇妙な文体と話しの内容に精神のある部分を完全に鷲掴みにされ、古本屋に行く度に野坂氏の本を買い集めました。当時殆ど100円で入手出来ました。「オマエん家の本棚、野坂ばっかりじゃん」と遊びに来た友達に言われる程、一時は野坂本だらけでした。と言ってもその当時使用していたのは非常に小さい本棚でしたが。

『骨餓身峠死人葛』『てろてろ』『砂絵呪縛後日怪談』といった、おどろおどろしくけったいなタイトルのものから順に読み始めていきました。わたくし今は「彫刻家」や「蝋彫刻家」とテキトーに肩書きを名乗っていますが、何年か前までの名刺には「蝋彫刻師」と記載しておりました。当然、野坂氏の著作タイトルの『エロ事師たち』『とむらい師たち』『騒動師たち』といった、『~師』にリスペクトを捧げたつもりだったのです。一度も誰からも指摘されませんでしたが。

しかしその当時買い求めた本は、今は殆ど手元にはありません。更には野坂氏のどの本を読んだのかさえ、かなり記憶が曖昧になってしまっています。実はわたくしこう見えて書籍に対する執着は大変薄いのです。特に小説に関しては。レコードに関する執着はそれこそ我利我利亡者の如くなのですが。

そこでようやっと、野坂昭如氏のレコードの話しに辿り着きます。

1986年にこれまた八王子の中古レコード店で、野坂氏の記念すべき文字通りの処女盤LP◉『鬱と躁』1972年発売のオリジナル盤 ↓ を1,700円で買いました。今は結構高いらしいのですが。

<写真左が表ジャケット、右がサイン入り内袋と、何故か1枚ずつバラバラの歌詞カード>
今になって考えてみると、このアルバムを最初に買えたのは、かなりのビギナーズラックでした。その後現在に至るまで、LP◉が合計7枚、CD◎が9枚 ↓ と、コンプリートならずとも、

かなりマメに入手してきたのですが、この『鬱と躁』が一番内様が充実しているように思います。シングル盤はLPよりも入手困難なものがあったりで、未だ1枚も入手出来ておりません。

書籍に関してはその後も買ったり手放したりを繰り返し、現在手元にあるのはこれだけなのです ↓

<写真右のさらに右端の2冊、『ひとでなし』『妄想老人日記』がオススメです!>

動く野坂昭如氏 ↓ となると、現在これくらいが精一杯です。

上記写真左から若干の説明をしますと○『恐怖劇場アンバランスVol.5』の第9話(1969年)に、野坂氏が「坂野」という役柄で登場しています。さすがに若いです!一見の価値有り。□『バージンブルース』は藤田敏八監督の日活映画(1974年)で、主演は長門裕之。野坂氏は「黒の舟歌」を熱唱。「バージンブルース」も歌ったような歌わなかったような、、、記憶が曖昧です。最近DVD化されたのでレンタル等でも視聴可能だと思います。◎『クレイジーケンバンド / BEST 亀』の初回限定盤のDVDには、CKBをバックにして「 マリリン・モンロー・ノー・リターン」「終末のタンゴ」を歌うお宝映像が収録されています。2000年のライブですが、これより前に出たCDには「バージンブルース」「黒の舟歌」も収録。野坂氏の出演部分、是非共コンプリートの映像で見たかったのですが。

さてわたくしは1990年から12年間杉並区に住んでいまして、そこは野坂氏のお住いまで歩いて20分くらいの場所でした。いつものように散歩コースを歩いていると、何と!野坂昭如氏ご本人が前方からやってくるではありませんか!しかも、、、何故だか、、、恐るべきボロボロの!まるでスクラップのような自転車に乗って!あまりにもナチュラルにスーッと、、、通り過ぎて行ったのです、、、野坂昭如氏の幻覚?

この時の事は半ば幻として記憶に留めていたのですが、その後も書店で店員に注文していたり、お孫さんをベビーカーに載せて家族で散歩中だったり、喫茶店で打ち合わせ中だったりと、何故だかいつも非常に声を掛けづらいタイミングで7~8回くらい遭遇したのです。

その辺りを散歩中に出会ったらと、ついには野坂氏の本とサイン用ペンを携えて散歩をする事に。しかしそうすると何故だか不思議と全く出会えなくなってしまったのです。。。

2000年3月、久々の新作CD◎『野坂昭如のザ・平成唱歌集・巻之一』の発売に合わせて、ミニライブ&トーク&サイン会が御茶ノ水のディスク・ユニオンで行われました。この時を逃してなるものかと急いで駆けつけ、トーク終了後に念願のサイン ↓ を!

<左側のヒョロリとした字が御本人のサインなのです)>
少しお話しも出来て「僕の家が割と近所なので、何度かお見かけしました!」と言うと「我が家は猫だらけで、殆ど猫屋敷なんですよ」と微笑みながら話してくれました。優しく品があって、オマケにすごくカッコ良かったのを未だに思い出します。

野坂さん、私が大学3~4年の約1年間ずっとサングラスをして下らなく格好つけていたのは、完全に貴殿と宇崎竜童氏、もう一つ付け加えるならば川崎ゆきお氏の漫画『猟奇王』の影響です!まかり間違っても、よく居がちな陰鬱系ロックの好きな鬱陶しい兄ちゃん気取りではありません!サングラスというより気分は黒メガネでした!誰一人そんな事気にも留めてくれませんでしたが。

「想い馳せれば前述した1986年夕方6時過ぎレコード『鬱と躁』を買い完全に金がなくなり、郵便局にと行きかけるものの当時は今と違い6時を過ぎるとATMが完全閉鎖。仕方なく下宿に戻るもしかしそこは米やパンはおろか何の食べ物も無い有様。近所の友達にお金を借りる、或は押し掛けて何か食べさせてもらおうと考え電話しつるるもこういう時に限り友人3人、全くもっての不在。携帯はおろか留守電もままならぬ時代の話。結局水を飲んでその日の夕食を食べずやり過ごし、翌朝空腹をこらえATMにと。。。」

———二度と飢えたレコード・マニアの顔を見たくない———この言葉を私なりの追悼として、更に過去の愚かな自分に対しても送らせていただきます。

野坂昭如さん、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 


 

K氏、我ながら思いますがこの「レコード・マニア」「レコード・コレクター」「レコードおたく」こういった呼称はもうそろそろ古いのではないかと、最近頓に思うようになったのです。これからは野坂氏にリスペクトを捧げて「レコードプレイボーイ」と言うのはどうでしょう?

———つまりレコ屋で検盤の際に「この傷、音に出ますか?」と聞くのではなく「この傷、わたくしに愛せそうでしょうか?」と憂いに満ちた視線を投げかけるのです。店員に。勿論フランシス・レイやバカラック、ゲンズブール等をダバダバと視聴しながら。黒メガネ越しに。

水濡れで歪んだレコード・ジャケットを「ウォーター・ダメージ」と言いますが、それを見つつ「フ、お嬢さん、ウォーターな商売を転々として来て色々ダメージがあったみたいだね。。。」と、つぶやきながらジタンの煙をホワッと吹きかけるのです。再度店員に。その店員の刺す様な視線も黒メガネで見事ブロック。若干長めのモミアゲも効いております———

K氏、今後こういった活動をする「レコードプレイボーイ倶楽部」というたった二人の大組織を一緒に運営して行こうではありませんか!次から次へと世界各国のレコードを渡り歩くにはやっぱりこれくらいの「ジュテーム/プレイボーイ観」が必要なのではないかと。近々二人でレコ屋廻りをしてそれを「レコードプレイボーイ倶楽部」第1回目の活動とし、それで更に会員を増やしていって、そしてその次の活動は、、、、、、

K氏、いつにも増して今日はお早いお帰りなのですね。流石に1人で倶楽部を名乗るのはどうにも。

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